Single Victory Club [3] Members 1970s

 
Single Victory Club [3] Members 1970s

1回しか勝てなかった男たち列伝 その3 ≪1970年代≫

70年代の SVC 入会会員は以下の7名。

ピーター・ゲシン(イギリス)

1971年第9戦イタリアGP / BRMでの優勝。
このレースは、スリップストリームの応酬で26回もラップリーダーが入れ替わり、ゴール時には0.61秒差で5台がゴールに雪崩れ込むという混戦だった。優勝平均速度242.616km/hは当時の新記録で、以後32年間にわたり破られることはなかった。2位とのタイム差は0.01秒で、しばしばF1史上1位と2位が最も僅差のレースとして挙げられる。ただしこのレースのタイム計測は1/100秒単位であり、実際のタイム差は1/1000秒単位で計測された1986年スペインGP(0.014秒差)、2002年アメリカGP(0.011秒差)のほうが接近していた可能性がある。

フランソワ・セベール(フランス)

1971年最終戦アメリカGP / ティレルでの優勝。
1973年最終戦アメリカGPで「ひとっ走りしてポールをいただいてくる」と言い残し、片手でハンドル、もう片手でバイザーを下しながら、ジャッキー・スチュワート夫人に投げキッスをして最後の1周に向かった。これがピットの人間が最後に見た彼の姿となった。
オーバースピード(時速240km)で外側ガードレールに接触、スピン、反対側のガードレールへフロント部分から突っ込み、ガードレールの支柱に激突して横転。支柱が破壊された事によりガードレールの上段がめくれ上がる形となり、宙を舞ったマシンはその真上に落下、マシンごと股から顎の下まで真っ二つに引き裂かれ即死。29歳。
1975年制作の映画「F1グランプリ 栄光の男たち」では比較的長時間のインタビューに答えている。その中でかつての自らを「狂犬のようなドライバー」であったとし、「ジャッキー・スチュワートが私を育ててくれた。考える方法を彼が教えてくれた」「今でもジャッキーは私にとっての師匠だ。世界で最高のF1ドライバーだと思う。2時間90周をミスなく走りきる唯一のドライバーだ」と評し、その彼に勝つために必要なことはとの問いに「ミスをしないこと」「経験と集中力、クルマのセットアップ能力」「レースで走りやすいクルマを作ること」「(これができれば)コーナーでも力ずくでねじ伏せる必要がない」「どんなときでもジャッキーはバランスのいいクルマで戦う」と「師匠」への敬意を隠さなかった。

ジャン=ピエール・ベルトワーズ(フランス)

1972年第4戦モナコGP / BRMでの優勝。
しかしこのシーズンは、モナコGP以外は表彰台はおろか入賞すら無しという結果に終わる。
1971年のブエノスアイレス1000kmレースにおいては、「無謀な行為によって死亡事故を招いた」として、アルゼンチン警察に逮捕された(その後保釈金を払った為、すぐに解放され帰国している)。
レース序盤、ベルトワーズの駆っていたマトラのマシンがエンジントラブルを起こしストップ。この際、止まった場所が最終コーナーでありピットから近かった為、修復の為に運ぼうと降車後にコース上でマシンを押していった。しかし、危険と避難を促されその場を離れかけた瞬間、バトルで前方の視界を遮られていたイグナツィオ・ギュンティのフェラーリ・312PBが減速する間もなくコースに残されていたマトラに激突。フェラーリは大破し炎上、マシンに取り残されたギュンティはそのまま焼死。
この件は通常のレース中のアクシデントとしては処理されず、コース上でマシンを押し進める行為が招いた人災とみなされた為、逮捕という事態となった。ただし「イエローフラッグを振っていなかった」「マシン消火中もレースを続行し、後続車に回避指示を送ることもしない」等、主催者側に怠慢と取られかねない要素があったことも指摘されている。

ホセ・カルロス・パーチェ(ブラジル)

1975年ブラジルGP / ブラバムでの優勝。自らの故郷で開催されたブラジルGPでの勝利。
生涯唯一のグランプリ勝利を記録したインテルラゴス・サーキットは、彼を記念してアウトドローモ・ホセ・カルロス・パーチェと改名され、ブラジルGPの開催地となっている。

ヨッヘン・マス(ドイツ)

1975年第4戦スペインGP / マクラーレンでの優勝。
17年後の1992年ベルギーGP(ミハエル・シューマッハ)まで、ドイツ人がF1で優勝することはなかった。
1982年第5戦ベルギーGPの予選終盤において、アタックを終えスロー走行をしていたマスと、タイムアタックをしていたジル・ヴィルヌーヴがS字で遭遇。ヴィルヌーヴに走行ラインを譲ろうとしたマスと、マスを抜こうとしたヴィルヌーヴは同方向に動いてしまい、ヴィルヌーヴのフェラーリは、マスのマーチに乗り上げ宙を舞った。
フェラーリは落下の衝撃で大破、マシンから投げ出されたヴィルヌーヴは死亡。死亡事故の当事者となってしまったマスだが、この接触においては当時から「ヴィルヌーヴのドライビングミス」「レーシングアクシデント」とされた。ヴィルヌーヴが前戦サンマリノGP終了後より、ディディエ・ピローニとの確執から非常に苛立っていて、無理な予選アタックを行なったことも明らかとなり、マスが責められることはなかった。

ヴィットリオ・ブランビラ(イタリア)

1975年第12戦オーストリアGP / マーチでの優勝。
雨が激しく降り始めた局面でそれまでトップを走行していたヘスケスのジェームズ・ハント(DFVエンジンの8気筒のうち1気筒が損傷)を豪快にオーバーテイク。当初54周で行われるはずだったが、豪雨でのレース続行は困難と判断したレース・オーガナイザーは29周でレース成立と打ち切りを決定、そのまま優勝となった。
喜びが過ぎ、チェッカーフラッグを受けた直後にステアリングから両手を離してガッツポーズをしてしまいクラッシュをするという珍事も引き起こしている。
サーティース時代のあるレースの予選中にマシンをコースアウトさせた際に、コース脇にいたカメラマンを撥ねそうになったことがある。幸いカメラマンは無傷だったが、マシンはクラッシュしカメラマンが持っていたカメラバッグも壊してしまった。サーティースチームのスタッフたちはスペアカーを用意し、ブランビラが1つしかないシートを持って戻ってくるのを待ったが、ピットに現れたブランビラはシートではなく壊れたカメラバッグを持っていて、「修理してくれないか?」と当時サーティースチームのメカニックだった津川哲夫に求めたという。
1980年代後半、イタリアグランプリでメディカルカーを操縦することになり、ブランビラは同乗したシド・ワトキンス博士に「どれくらいの速度で走れば良いか?」と訊いた。すると、ワトキンス博士は「どれくらいで走ってもらっても良い。但し、トップには立たないように」と答えた。
一部のレースマニアからカルト的な人気を博したイタリア人ドライバーで、“モンツァ・ゴリラ” というニックネームの由来はその豪胆極まりない、ときに粗暴なドライビング・スタイルにあった。

グンナー・ニルソン(スウェーデン)

1977年第7戦ベルギーGP / ロータスでの優勝。
マシーンは元祖ウイングカーとして知られるロータス・78。シーズン末、ニルソンは自分の体が精巣癌に蝕まれていることを知る。それでも最終戦までシーズンを戦い抜き、翌1978年に向けてアロウズと契約を結ぶ。
しかし症状は悪化し、闘病生活に入ったニルソンは参戦断念を余儀なくされた。その後、痛み止めを拒否し、自身の資金で癌撲滅基金を創設するなど、癌撲滅キャンペーンを展開。病気の体をおしてサーキットにも現れていたが、シーズン終了直後の10月20日、ロンドンの病院で死去。29歳。
最後のレースとなった1977年日本GPでは、通常のJPSブラックカラーとは異なるインペリアルタバコの赤いロータスのマシンをドライブした。このカラーリングは1戦のみの出走であり、ミニカーなども多く販売されている。