Single Victory Club [5] Members of 1990s

Single Victory Club [5] Members of 1990s

写真は2004年第17戦日本GP時点のトヨタのドライバー2名。
トヨタはこの1戦のみ Single Victory Club の会員2名を同時に擁する貴重な栄誉を味わった。


1回しか勝てなかった男たち列伝 その5 ≪1990年代≫

90年代の SVC 入会会員の2名はともにフランス人ということもあって両者ともに同国輩出の大先輩であり当時のF1歴代最多勝ドライバー アラン・プロストと関係が深い。

ジャン・アレジ(フランス)

1995年第6戦カナダGP / フェラーリでの優勝。
自分の誕生日当日の、憧れのジル・ヴィルヌーヴの名前を冠するサーキットでジルと同じカーナンバー27のフェラーリでの勝利は、F1におけるV12エンジン最後の優勝。
F1参戦92戦目(出走は91戦目)での初優勝は当時ティエリー・ブーツェンの96戦に次ぐ2番目に遅い初優勝で、フェラーリドライバーとしての連続未勝利レース数67戦は2013年開幕戦オーストラリアGPでフェリペ・マッサが68戦連続未勝利となるまでワースト1位。

1989年フランスGPで、チームのスポンサーの関係でシーズン途中にミケーレ・アルボレートからの交代でティレルよりデビュー、いきなり4位入賞。後半は後のGP2にあたる国際F3000を優先し2戦を欠場。
翌1990年はチームメイトに中嶋悟を迎えてティレルからF1フル参戦、開幕戦アメリカGPとモナコGPで2位入賞。
エプソンの企業TVCMでは、忙しい中嶋悟のボディダブルとして中嶋のヘルメットを被ったアレジがティレル019をドライブ(VIDEOLISTページ、TV Ad-film内に掲載)。

1990年シーズン中翌年の移籍交渉でウィリアムズと契約したが、フェラーリがウィリアムズから契約を買い取る形でフェラーリ入りが決定。この時、オーナーのフランク・ウィリアムズが所望して契約買取代金の一部として1990年の641/2がウィリアムズに渡り、ウィリアムズ博物館の歴代ウィリアムズF1マシンの中、1台の真紅の跳ね馬が展示された。

1991年、アラン・プロストのチームメイトとして念願のフェラーリ入り。後にプロストがリジェを買収して立ち上げたチームで走るなどプロストとは公私共に友人であったが、現役中は表彰台で一緒に立つことはなかった。

1992年、プロストが立会人を務めてローレンス夫人と結婚、長女シャルロットが誕生。
またこの年にはチームに頼み込み、少年時代に自宅の部屋に等身大ポスターを飾っていた憧れのジル・ヴィルヌーヴと同じカーナンバー27を得た(フランスF3時代は同じくジル・ヴィルヌーヴを敬愛している片山右京と仲が良かった)。

1994年イタリアGPでリタイアした際、悔しさで泣きながらステアリングとグローブを投げつけてコックピットを降り、そのままサーキットを去った。
1995年イタリアGPではレース終盤までトップを独走していたが、残り7周でリタイアしピットウォールで泣きじゃくった。レース後に兄とともにアヴィニョンの自宅まで車で帰った際の平均時速は230キロに達していたという。

1995年の初優勝後からチーム監督のジャン・トッドとの関係が拗れ、ポルトガルGPではゲルハルト・ベルガーを前に出すチームオーダーを無視し罰金が科せられ、「チームはいつもベルガーばかり優先する」と怒りを露わにした。
ベルギーGP前にフェラーリは1996年のミハエル・シューマッハとの契約を発表。同時にベネトンもアレジとの契約を発表。しかし、イタリアGP前にベルガーもベネトンとの契約を発表、ベルガーと共にベネトンへ移籍という本末転倒な結果(ベルガーとは個人的には仲が良かった)。
ベネトンのフラビオ・ブリアトーレは「アレジは子供のところがあり、パパのような存在が必要だからベルガーをチームに迎えた」と発言。イタリア系フランス人で情熱的で直情的。カッとなりやすいところから「大きな子供」と呼ばれた。
離婚前から、日本のファンクラブパーティーで知り合った熱心なファンの日本人女優・後藤久美子と不倫。1995年の初優勝時の日本向けインタビューで交際宣言、ワイドショーを賑わした。その後、同居して事実婚のまま後藤との間に3子を儲けた。

2001年、後の SVC 会員ヤーノ・トゥルーリ(2004年入会)とともにジョーダンからエントリー。
チームがホンダエンジンの供給を巡り佐藤琢磨との契約を選んだため、追い出される格好で最終戦日本GP直前にF1からの引退を表明。ラストレースはルーキーであるキミ・ライコネンのスピンに巻き込まれてクラッシュ、リタイア。

13年間でティレル、フェラーリ、ザウバー、プロスト、ジョーダンと渡り歩いたアレジには、コーナリング中、ヘルメットをコーナーのイン側へ傾ける癖があった。
また、ステアリングの握り方も独特で11時5分の位置を握っていた(当時のステアリングは円形)。アレジが勝てないのはこの握り方のせいと、同郷の先輩パトリック・タンベイがテレビ中継で批判していた。

オリビエ・パニス(フランス)

1996年第6戦モナコGP / リジェでの優勝。
14番手スタートからの優勝はリジェにとってF1での最終勝利、無限ホンダエンジンにとってのF1初優勝。
そして、2015年シーズン第7戦カナダGP終了時点現在、フランス人ドライバーが記録した最後のF1勝利。

1994年にリジェからデビュー。当時は英語が上手く話せず、GP記者会見では通訳を同伴。
1996年最初で最後の優勝。
1997年、リジェはアラン・プロストに売却されプロスト・グランプリに改称、パニスはチームに残留した。この年から新規参入したブリヂストンタイヤのユーザーでは最も競争力があり、第2戦ブラジルGPで3位、第6戦スペインGPでは2位に入るなど好調を維持。
しかし、ドライバーズ・ランキング3位で臨んだカナダGP決勝レース中にコンクリートウォールに激突して両足を骨折。シーズン終盤のルクセンブルクGPから復帰し、最終3レースに参戦したがルクセンブルクでの6位以外の入賞はなく、最終ランキングも9位に転落。
チームメイトであり直接のライバルでもあった中野信治はチーム内で何かと冷遇を受けており、アラン・プロストに「シンジにも走りやすい環境を作ってやってほしい」と苦言を呈したが、最後まで待遇は改善されなかったという。

1998年は新たなチームメイトのヤルノ・トゥルーリとともにマシンの競争力に苦しめられてキャリア唯一の無得点年に終わった。
そう、プロスト・グランプリも Single Victory Club のドライバー2名を同時に擁する歴史的快挙を成し遂げていたのである(トゥルーリはこの6年後の2004年第6戦モナコGPでの優勝により入会したので、この時点ではまだSVC 会員候補者の一人にすぎなかった将来を有望視されていた未勝利ドライバーの一人であった)。

1999年もマシンの競争力に苦しみ、翌年のチームが決まらぬままプロスト・グランプリとの契約を満了。

2000年はウィリアムズから誘われたものの、1年契約だったため断念。一方マクラーレンがサードドライバーとしてオファー。レースの出場機会はなくなるがテスト走行する機会が多いこととトップチームに所属するメリットを考慮して契約。
マクラーレンもミカ・ハッキネンやデビッド・クルサードのどちらかが欠場すれば、優勝経験者のパニスがリリーフドライバーとしてレースに出場できるという狙いや、クルサードがMP4-14の扱いに苦しんでいたこともあり、シーズン序盤の成績次第ではパニスと入れ換えるという思惑もあったようである。
マクラーレンの初テストでパニスのシートには、赤ワインとカマンベールチーズが事前に置かれてあった。スタッフの粋な歓迎に、パニスはとても喜んだという。
経験豊富で速さもあり、フィードバックや高い開発能力に長けたパニスをマクラーレン首脳陣は高く評価し、またドライバーのハッキネン、クルサード共にパニスの貢献度を賞賛していたこともあってドライバーとしての価値が再び上がることになった。チームは破格の条件を提示して残留に務めたが、パニスはレース出場を望んで移籍を決断した。

2001年、前年のマクラーレンでの働きを評価され、B.A.Rのレギュラードライバーとして契約した。マシンの戦闘力不足もあり、最高位は2001年ブラジルGPでの4位。2002年限りでB.A.Rを離脱した。

2003年からトヨタへ移籍。2シーズンを戦った後、2004年最終戦ブラジルGPを残し、第17戦日本GPをもってレギュラードライバーを退いた後、2005年と2006年をトヨタのテストドライバーとして過ごして引退。

トヨタでの2004年はパニスのシートは安泰だったが、チームメイトは第12戦ドイツGPまでがクリスチアーノ・ダ・マッタ、第13戦ハンガリーGPから第16戦中国GPまでがそれまでサードドライバーを務めていたリカルド・ゾンタ、第17戦と最終戦は翌年から移籍することとなっていたヤルノ・トゥルーリと、目まぐるしく入れ替わった。スポンサー持ち込みマネーを期待する金欠チームならいざ知らず、当時F1史上最高額の資金投入をしていたとされるトヨタがドライバーを次々と交代させたのは、トヨタの、ドライバー個人に対する非情さと、成績の低迷をドライバーのせいにする開発チームの体質を象徴していたと言えるが、一点だけF1史にとって良かったこともある。
上述のような状況のお陰で、2004年第17戦日本GPの一戦のみ、1998年プロスト・グランプリでのパニスとトゥルーリのチームメイトコンビが復活したのである。
トゥルーリはこの年の第6戦モナコGPでルノーに乗ってF1初優勝を遂げており、トヨタは31年振りに現役 SVC 会員2名を同時に擁するチームとしてF1史に名を残すという栄誉を手に入れることができたのだ!

参考:現役SVC会員を複数同時に擁したチーム(2004年までの全記録)
・フェラーリ(バンディーニ/スカルフィオッティ)1967年第2戦のみ
・BRM(ベルトワーズ/ゲシン)1972年第9~12戦、1973年第14戦のみ

* 但し、この2チームの記録は1チームからの出場マシン制限が無かった頃のものであり、ドライバーが2名に限定されるようになってからのトヨタの記録はより希少性が高いものである。