Single Victory Club [7] Members 2010s

 
Single Victory Club [7] Members 2010s
冒頭写真:
2012年第5戦スペインGPのポディウムでの一コマ。
ワールドチャンピオン2人を下し、担ぎ上げてもらうパストール・マルドナド

1回しか勝てなかった男たち列伝 その7 ≪2010年代≫

最終更新:2022年第4戦エミリア・ロマーニャGP終了時点で加筆修正

ここまでの31人について振り返ると、ほとんど全員が不運な結末を迎えていることが判る。
まるで SVC が呪われたクラブのようでもある。
2021年時点での、2000年代に SVC に入会した3人のその後を見てみると、ヤーノ・トゥルーリはフォーミュラEの2015-2016シーズンを以てドライバー家業を引退。
2011年2月のラリー事故で負傷したロバート・クビサは2017年6月にルノー、10月にはウィリアムズからのテストドライブを皮切りにウィリアムズのリザーブドライバーとして過ごした後、2019年にウィリアムズからレギュラードライバーとして8年振りの復帰、2020年以降はアルファロメオのリザーブドライバーに就任。
ヘイキ・コバライネンは2012年をケータハムのレギュラードライバーとして過ごした後、2013年にそのシートを失い、ロータスで背中の手術・療養のために欠場したキミ・ライコネンの代役として2戦に出走したが、2014年は乗れず。2015年から拠点を日本に移して2021年までSUPER GTに参戦、2016年にはドライバーズタイトルを獲得、2018年には小林可夢偉とも組んだ。2022年現在は全日本ラリー選手権に参戦中。
可能性は限りなくゼロに近いとは言え、この中ではトゥルーリ以外の2人には2度目のF1優勝を成し遂げる可能性があると言える。
つまり、近いうちに SVC を退会する可能性を持っているのだが、もし復帰後に2度目の優勝となれば大変センセーショナルな出来事となる。
SVC というクラグは、入会してからの時間が経つに連れどんどん退会しにくくなっていくシステムで運営されている=年齢を重ねるに連れ復帰が難しくなるためである。
復帰後の優勝は、記憶に新しいところでは1979年ブラバムで引退~1982年マクラーレンから復帰して優勝したニキ・ラウダと、1991年フェラーリで引退~1993年ウィリアムズから復帰して優勝したアラン・プロストの例があるが、彼らは何度も勝っているのみならず何度もワールドチャンピオンになっているので、復帰後の優勝を遂げ易い環境を選ぶことができた。
これは、2006年フェラーリで引退~2010年メルセデス・グランプリから復帰したミハエル・シューマッハでさえ達成できなかった偉業である。
このような理由で 2000年代の3人、トゥルーリ、クビサ、コバライネンは SVC 退会の可能性が薄いが、次に登場する会員にも退会の目は無さそうである。
そもそも彼の入会自体が非常に予想しにくいものだったからだ。
2010年代の SVC 入会会員は1名のみ。

パストール・マルドナド(ベネズエラ)

2012年第5戦スペインGP / ウィリアムズでの優勝。
ベネズエラ人としての史上初優勝は、ウイリアムズにとって2004年のファン・パブロ・モントーヤ以来8年振りの優勝。
F1デビューに先駆ける事6年前の2005年、F1モナコGP前座のフォーミュラ・ルノー3.5レース中に、イエロー・フラッグを無視した結果マーシャルにぶつかり背骨を折る重傷を負わせる大事故を起こした。モナコGPの主催者はマルドナドをモナコ市街地サーキットでのレースから永久追放するという処分を下したものの、父親が怪我をしたマーシャルの回復及びリハビリ費用を負担する事を約束したことで、F1に於いてもモナコGPに参戦可能になっている。この危険行為により4戦の出場停止処分。
2010年GP2チャンピオン。
2011年ウィリアムズからF1デビュー。第6戦モナコGPでは残り5周まで入賞圏内の6位を走行していたがルイス・ハミルトンと接触しリタイア。
2012年、シーズン前にウィリアムズからマルドナドの持ち込みスポンサーPDVSAへの請求書がネットに流出、金額は2,940万ポンド(当時の日本円で約36億円)。F1史上最高額のペイ・ドライバーなどと揶揄された。
シーズンが始まると、開幕戦オーストラリアGPで予選Q3進出を果たすなど、幸先の良いスタートを切り、決勝でもファイナルラップまで6位を走行していたが、ターン7でクラッシュ。
第5戦スペインGPでは再び予選Q3に進出し2番手のタイムを記録、ハミルトンが予選失格になったことで初のポールポジションを獲得。決勝レースではスタートでフェラーリのフェルナンド・アロンソに先行を許すものの、ピットストップでポジション奪回に成功、そのまま抑え切り初優勝を果たした。
第12戦ベルギーGPでは予選3番手を獲得するもセッション中にニコ・ヒュルケンベルグの走行を妨害したとして6番手に降格、更に決勝ではジャンプスタートをしてしまいドライブスルーペナルティを受けることになった。だがペナルティ消化前にマルシャのティモ・グロックと衝突しフロントノーズを破損、リタイア。これにより次戦はベルギーGPで受けるはずだったペナルティに加え更にグロックとの接触のペナルティにより10グリッド降格の処分が下された。
この年の夏、初優勝後初めて母国ベネズエラに凱旋、VIP、五輪金メダリスト、大勢のファンに見守られる中でスポーツ祝典のハイライトとしてウイリアムズのF1マシンで12周のデモ走行が予定されていた。しかし走行開始後間もなくスピン、クラッシュ、そのままデモ走行を終える羽目になってしまった。
2013年も引き続きウィリアムズから参戦したが、チームの低迷を理由に自ら翌年からの離脱を発表。ウィリアムズ側とは高額のスポンサー契約とドライバー契約が残っており、違約金として残り期間のスポンサー料を支払いウィリアムズを離脱した。
2014年と2015年を移籍先のロータスで過ごしたが、2016年にはロータスがルノーに買収され、また母国ベネズエラでの国際石油価格急落により、個人スポンサーを務めるベネズエラ国営石油会社(PDVSA)とルノー間の支払いの意見の食い違いが発生。その結果、ルノーのシートを確保できず、ルノーの公式発表前の2月2日、自身のTwitterで「2016年のレースには参戦しない」と発表した。
2018年と2019年は WECスーパーシーズン、ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ、スポーツカー選手権に参戦。
好成績は収められず2020年以降は事実上のドライバー引退状態である。
彼固有の顕著な特徴として、クラッシュを引き起こす回数、頻度の多さのみならず、クラッシュにまつわる奇妙な言動(「僕がクラッシュすれば大きなニュースになるが他のドライバーがクラッシュしてもニュースにはならない」「限界点を見極めようとすればそれを超えることだって必要で僕には毎回限界を超えるだけの肝っ玉がある」)や、単独か他人を巻き込んだか(who)を問わず、どうしたらそこでクラッシュするのか(when/where/why)という原因の不可思議さと、どうしたらそんな状態にクラッシュするのか(how)というダイナミックな挙動が挙げられる。
最後に、この “パストール5W1Hの謎” に迫るべく、彼にとっては極々一部のクラッシュ写真を掲載する(クリックで拡大)。