Single Victory Club [1] Members of 1950s

Single Victory Club [1] Members of 1950s


1回しか勝てなかった男たち列伝 その1 ≪1950年代≫

F1の歴史は1950年イギリスGPから始まった。
そして、1960年まではインディアナポリス 500マイルレース(通称インディー500)がF1の一戦として組み込まれていた。

インディー500自体は1911年から続くアメリカンモータースポーツの殿堂レースなのだが、筆者個人はこの50年代のインディー500のF1組み込みがF1記録史を汚していると考えている。
実際にはインディー500=世界選手権という体裁を整えるための名目上の(F1にとっても世界選手権と呼ぶからにはアメリカ開催という建前が欲しかった)ものであり、通常のヨーロッパのレースを戦うF1ドライバーの参戦は少なく(例:1959年のインディー500には他のF1ドライバーは1名も参加していない)、アメリカ人の独占が続いたのだ。
つまり、「元々F1ドライバーではないが毎年インディー500に参加していたアメリカ人ドライバー」がここで勝つと記録上「F1で勝った」ことになってしまっているのである。

例えば、アメリカ以外のレースには一切出場しなかったドライバーがいたとする。彼が1960年から5年連続でインディー500で勝って引退したとすると、インディー500通算勝利は5勝、F1では1勝のみ。F1とはマシン規定も異なるインディアナポリスでの同じレースでしか勝たなかったのに見事 SVC 会員になってしまった。しかも、実際には5回も同じレースで勝っているのに、F1 記録として見る限り「生涯で一度しか勝てずに引退したんだなぁ」となってしまう。更に、「初出場で初優勝を遂げたドライバー」「1度しかF1に乗らなかったのに勝ったドライバー」としても記録に残ると聞けばさすがに皆が違和感を覚えるだろうが、こうなってしまっているドライバーが実際にいる。

勿論、当時のインディー500が正式な F1 選手権である点では問題はないのだが、こと記録に関しては、「50年代のF1ではアメリカ人が強かった」「ヨーロッパ主体のF1であるにもかかわらずアメリカ人の参加が非常に多い」という誤解や、「SVC 初期会員にはやたらとアメリカ人が多い」(これは間違いではない)というデータから「その後もF1で走っていたのに結局一勝しかできなかったアメリカ人が多い」という間違った印象を与えてしまう。

このため、1950年からの11年間に Single Victory Club に加入したメンバー13人中9人がF1インディアナポリスGP(=インディー500)優勝者であり、中にはインディー500がF1と袂を分かった後にもインディー500で勝った者もいる。
また、インディー500の参戦者どころか優勝者までもがF1の公式エントリーリストに載っていない。F1にエントリーすらしていないことになっている。

当初は、ややこしくなるのでこの連載ではインディー500勝者をカットしていたが、会員No.3から始まるリストもどうかと考え、結局加筆修正した。
各ドライバーのサムネイル画像はクリックすると拡大表示される。

ジョニー・パーソンズ(アメリカ)

1950年第3戦インディアナポリスGP(インディー500) / カーティス・クラフト(インディーレース参戦チーム)での優勝。
初代 SVC 会員。
下記は、その1950年第3戦インディアナポリスGP(インディー500)と2013年オーストラリアGPのピットストップ比較動画。

リー・ウォラード(アメリカ)

1951年第2戦インディアナポリスGP(インディー500) / Murrell Belanger(インディーレースカーオーナー)マシーンでの優勝。
インディー500を制した翌週、ペンシルバニア州で行われたレース中にホームストレートでクラッシュ、炎上。重度の火傷に苦しみ27箇所もの皮膚移植を行った。

ルイジ・ファジオーリ(イタリア)

1951年第4戦フランスGP / アルファ・ロメオ・ワークスチームでの優勝。53歳での優勝は最年長優勝記録。
ファンジオとのシェアドライブ(フィニッシュドライバーもファンジオ)だった。
翌1952年、モナコGPの練習走行中にトンネルでクラッシュ、マシンから投げ出されて死亡。

ピエロ・タルッフィ(イタリア)

1952年開幕戦スイスGP / フェラーリでの優勝。
日本のモータースポーツ黎明期の1960年代初頭、本場ヨーロッパ流のモータースポーツを根付かせることに大きく貢献。1964年に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリの名誉総監督として運営に対するアドバイスを行ったほか、千葉県船橋市に開設された船橋サーキットのコース監修を務めた。
また、生沢徹や式場壮吉などの、当時の日本人トップレーシングドライバーに対するレーシングドライビングテクニックの講習を行うなど貢献は多岐に亘り、晩年まで度々来日している。

トロイ・ラットマン(アメリカ)

1952年第2戦インディアナポリスGP(インディー500) / J.C.Agajanian(インディーレースカーオーナー)マシーンでの優勝。
インディー500を世界選手権だと認めたいアメリカ人に編集されている英語版 Wikipedia では2003年ハンガリーGPでフェルナンド・アロンソが塗り替えるまで、彼の22歳81日での優勝は史上最年少優勝記録であったとされているが、F1公式記録としては「アロンソは1959年アメリカGPでのブルース・マクラーレンの22歳104日を43年振りに更新した」ことになっており、インディー500が公式にF1であったこととの混乱、矛盾が見られる。

ボブ・スウェイカート(アメリカ)

1955年第3戦インディアナポリスGP(インディー500) / John Zink(インディーレースカーオーナー)マシーンでの優勝。
翌1956年6月17日セーラムスピードウェイでのレース中にクラッシュ、炎上、死亡。30歳。

ルイジ・ムッソ(イタリア)

1956年開幕戦アルゼンチンGP / フェラーリでの優勝。
1958年第6戦フランスGP、2位走行中の10周目にクラッシュ、横転、大破し、即死。
F1決勝レース開催中の死亡事故2例目。
初の女性F1ドライバー・マリア=テレザ・デ・フィリッピスとは恋仲で、1958年第5戦ベルギーGPでは2人揃って決勝を走行。勿論、現時点で、恋人同士のF1決勝走行は彼らの例が唯一。

パット・フラハーティー(アメリカ)

1956年第3戦インディアナポリスGP(インディー500) / John Zink(インディーレースカーオーナー)マシーンでの優勝。

サム・ハンクス(アメリカ)

1957年第3戦インディアナポリスGP(インディー500) / George Salih(インディーレースカーオーナー)マシーンでの優勝。

ジミー・ブライアン(アメリカ)

1958年第4戦インディアナポリスGP(インディー500) / George Salih(インディーレースカーオーナー)マシーンでの優勝。
2年後の1960年にランホーンスピードウェイでのチャンプカーレースで事故死した当日は、F1ベルギーGPでも2人のドライバーの命が失われている。

ロジャー・ウォード(アメリカ)

1959年第2戦インディアナポリスGP(インディー500) / Leader Cards(インディーレース参戦チーム)での優勝。

ヨアキム・ボニエ(スウェーデン)

1959年第3戦オランダGP / BRMでの優勝。BRMにとってもF1初優勝。
1968年メキシコGPにおいて、プラクティス2日目に自身のマクラーレンM5AのBRM V12エンジンを壊した際、急遽ホンダにスペアカーの借用を申し出、RA301の2号車で予選・決勝に臨み5位入賞。一旦活動を終えるホンダに、最後のレースでの入賞をプレゼントする結果となった。
1972年、計13度目の参加となるル・マン24時間レースにローラから参戦し、下位クラスのフェラーリ・デイトナに接触、ガードレールを飛び越えて木々を倒し、大破炎上、即死。42歳。
BRM時代に同僚だったグラハム・ヒルの息子、デイモンの名付け親。