Single Victory Club [4] Members 1980s

 
Single Victory Club [4] Members 1980s

1回しか勝てなかった男たち列伝 その4 ≪1980年代≫

最終更新:2022年第4戦エミリア・ロマーニャGP終了時点での加筆修正

特筆すべきことに、80年代に Single Victory Club に加入したメンバーは一人しかいない。
80年代前半こそアラン・ジョーンズ、ルネ・アルヌー、ネルソン・ピケ、ジャック・ラフィー、カルロス・ロイテマン、ディディエ・ピローニ、ジル・ヴィルヌーヴ、アラン・プロストらが勝ちを分け合ったが、後半に差し掛かるとプロスト、ピケ、ナイジェル・マンセル、セナ・ダ・シルバの4強時代に突入し、間を縫うようにして優勝したゲルハルト・ベルガー、リカルド・パトレーゼといったドライバーたちも結局は4強のチームメイトかつセカンドドライバーであることが周知の者だった。極めつけは1988年のマクラ―レン16戦中15勝である。
上で名前の挙がっていない勝者はジョン・ワトソン、ニキ・ラウダ、パトリック・タンベイ、エリオ・デ・アンジェリス、ケケ・ロズベルグ、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン。つまり80年代10年間で20人以下しか勝たなかったということ。
原因としては、チーム間の格差が大きくなってきたことと、F1ドライバーの数が多かった(= 新人が大量に投入され入れ替わりが激しかった)ことが挙げられる。 1989年の例では、金曜朝に予備予選が行われて13台中4台が予選進出し、30台で予選を戦った。計39台 = 39人は2015年シーズンのほぼ倍。しかもシーズン途中で目まぐるしくドライバーが入れ替わるので、年間を通してではもっと多くのF1ドライバー(48人)が登場した。
SVCの新加入者が少なかったということは、一部の者に勝ちが集中していたという事実のみならず、1勝もせずに去らざるを得なかった者がいかに多かったかをも物語っている。
ところで、上記でちらっと名前を挙げたケケ・ロズベルグの存在は、SVC ファン視点で見ると非常に貴重かつ希望を与えてくれるものである。
1982年に初勝利を挙げてSVCに入会した彼は、史上唯一、SVC会員のままワールドチャンピオンになってしまったのだ!
この82年は(時は流れて40年後の2022年に復活することになる)グラウンド・エフェクト・カーの最終年であり、ラウダが2年振りのカムバックからの2勝という嬉しいトピックもあるが、他方、チーム内不和によるドライバーの対立(しかも複数チームで発生)、不可解な裁定、2名の死亡事故、選手生命を絶たれる重症事故、ドライバー達によるストライキ、多くのチームのボイコット、ドライバー母国の紛争問題による途中引退、チームの名総帥の急逝、2つのコンストラクターの消滅等、史上稀に見る混乱・波乱の年としても記憶される。
またチャンピオン争いでも、初優勝5名を含め11名の勝者が生まれ、3勝以上を挙げたドライバーはいないという、なかなかの混戦ぶりであった。
だからこそ、1勝のみでも着実にポイントを重ねたロズベルグがワールドチャンピオンになれたとも言えるが、残念ながら彼は翌83年に2勝目を挙げて SVC を退会してしまい、その後さらに勝利を重ねてF1生涯成績5勝。しかし、もしも彼が83年以降勝てていなかったら、現役SVC会員にワールドチャンピオンがいることになって、SVC ファンにとっては堪らない(ロズベルグファンはガッカリ)。ましてや、後にF1ドライバーとなった息子ニコ・ロズベルグも2012年に1勝した後は20戦以上も勝てなかった(その間表彰台も一度のみだった)ので、親子2代 SVC ドライバーの誕生を夢見ることができたかもしれないのだ(これがなかったからこそ、本当の意味での快挙、親子2代ワールドチャンピオン誕生になったのだけれども)。
…という妄想はさて置いても、初優勝の1勝のみでワードチャンピオンになれたという事実は SVC 会員の価値を上げ、夢と希望を与える快挙であったことだけは間違いない。
「103勝もしているのにワールドチャンピオン7回とは、何と効率の悪いことよ」という名台詞が生まれていたであろう(妄想)。

アレッサンドロ・ナニーニ(イタリア)

1989年第15戦日本GP / ベネトンでの優勝。
2位でフィニッシュ後トップでチェッカーフラッグを受けたセナ・ダ・シルバが、アラン・プロストとの接触後のシケイン不通過で失格となり、繰上げで念願の初優勝を遂げた。
1990年、日本GP直前の10月12日、シエナ郊外にある自身の別荘敷地内で、1週間前に中古購入した自家用ヘリコプター「エキュレイユAS350B」搭乗中に着陸に失敗し墜落、ローターで右腕の肘と手首の間を切断、チームを離脱した。
事故でレース生命を絶たれたかに思えたが、縫合手術に成功し、長いリハビリを経てレースに復帰。その後は、DTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)にアルファ・ロメオより参戦し活躍したが、F1カーを走らせるのに必要な体力と技術を取り戻すことはできずF1界に復帰することはなかった。
1992年日本GP前、フェラーリの企画で、ステアリングのグリップ部分にスイッチを移植し左手のみでシフトチェンジできるように改造したフェラーリF92Aをドライブした際に右手が耐えられないと自ら判断、F1復帰を完全に諦めたという。その時、「ずっと待っていたクリスマスプレゼントをもらった子供のような気分かな」とにこやかに話し、気取らない好漢ぶりをみせた。
その後もBTCCなどのツーリングカーレースで、右腕の負担を軽減するよう改造された特別車を駆って活躍したが、1997年のFIA GT選手権を最後に現役を引退。
現在は家業を継承した形で、自身の名を冠した喫茶店チェーンを世界的に展開している。日本にも東京都江東区青海のMEGAWEB内に「トラットリア・アレッサンドロ・ナニーニ」がある。なお以前は汐留の「イタリア街」地区に「リストランテ・アレッサンドロ・ナニーニ」が、名古屋港イタリア村と名古屋テレピアに「バール・アレッサンドロ・ナニーニ」があったが閉店した。静岡は店名が「トラットリア・パドローネ・ナニーニ」に変更されたが、2011年8月に閉店している。