Jackie Oliver’s Arrows

 
Jackie Oliver’s Arrows
マクラーレンに乗り込むジャッキー・オリバー

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ドライバーはチームオーナーとしても成功するのか? ≪ Jackie Oliver /Arrows ≫

ジャッキー・オリバー1942年8月14日、イギリス・エセックス生まれ
出走回数51
所属チーム1967-1968 ロータス、1969-1970 オーウェン・レーシング,BRM、1971-1972 マクラーレン、1973,1977 シャドウ
優勝回数0
通算獲得ポイント13
表彰台回数2
ポールポジション0
ファステストラップ1
ドライバーズタイトル0
アロウズ1978年第2戦〜2002年最終戦までのエントリー
出走回数アロウズ:301、フットワーク:81
コンストラクターズタイトル0
ドライバーズタイトル0
優勝回数0
通算獲得ポイントアロウズ:142、フットワーク:25
表彰台回数アロウズ:8、フットワーク:1
ポールポジション アロウズ:1、フットワーク:0
ファステストラップアロウズ:1、フットワーク:0
1967年ロータスからF1デビュー、オーウェンレーシング、マクラーレン、BRM、シャドウと渡り歩いたジャッキー・オリバーが、1977年の終わりに企業家のフランコ・アンブロジオの出資を盾に、シャドウのデザイナー、トニー・サウスゲイトとアラン・リース、エンジニアのデイブ・ウォスを引き抜いて設立。チーム名の由来は、アンブロジオ(A)、リース(R)、オリバー(O)、ウォス(W)、サウスゲイト(S)の頭文字をとったものである。
更に、ドライバーも新鋭のリカルド・パトレーゼをシャドウから引き抜いた。もう一人のドライバーとしてロータスからグンナー・ニルソン(SVC会員)が移籍してきたが、精巣癌のため参戦を断念、ロルフ・シュトメレンと交代した。
初年度1978年を戦うマシンとして FA1 を製作したが、シャドウの DN9 と酷似していたことからクレームが出、訴訟に敗北。シーズン終盤には再設計した A1 をデビューさせた。
パトレーゼは1978年のスウェーデンGPや1980年のアメリカ西GPで2位入賞、1981年のアメリカ西GPではポールポジションを獲得するなど時折印象に残る成績を残すこともあったが、コンストラクターズランキングでは中位以下のポジションがほとんどであった。
1980年代中盤にアメリカの損害保険会社のUSF&Gがメインスポンサーにつき、財政状況が向上、メガトロンエンジン(BMWの市販バージョン)を搭載した1988年はデレック・ワーウィックがコンスタントにポイントを獲得し、エディー・チーバーもイタリアGPで3位表彰台を獲得。シーズン最終戦を終えた時点で6位だったが、ベルギーGPでベネトンの燃料規定違反による失格裁定が確定すると、このレースで7、8位フィニッシュしていたアロウズが繰上げで5、6位となり、この3ポイントが効いて同点で並んでいたウィリアムズや2点先行していたマーチをかわし、ロータスと並ぶコンストラクターズ4位に躍進。
ターボエンジンが禁止された翌1989年は、コスワースの市販エンジンを搭載し勢いは落ちたものの、マシンバランスは良く、ワーウィックがところどころで光る走りを見せた。
1990年、オリバーはチームの株式の大半を、この年メインスポンサーを務めていた日本の運送会社フットワーク・コーポレーションに売却。1991年からはチームとして、1992年からはコンストラクターとしても「フットワーク」を名乗ったが、オリバーはディレクターとして留まった。
1991年には、かつてマクラーレンと組んでチャンピオンを獲得したポルシェエンジンを使用してシーズンをスタートしたが、このエンジンはかつてのTAGV6エンジンのターボを外して単純に2つ並べてつなげたもので、当初チームに知らされていた寸法と実際に届けられたエンジンの寸法が異なるという前代未聞のエンジンであった。更に他のエンジンに比べて大きくて重いため、シーズン途中で前年まで使用していたコスワースDFRエンジンに換装するというドタバタ劇を演じた。 当然この年の成績は振るわず、F1参戦以来初、最終的にも25年間で唯一となる年間ノーポイントに終わった。
1992年には無限のエンジンを使用。これに伴い、鈴木亜久里がチームに加わる。エースドライバーのミケーレ・アルボレートがリタイアわずか2回という堅実な走りでチームを引っ張った。7位6回(当時は6位までが入賞)とポイント獲得を逃すことが多かったものの、対照的に亜久里は駆動系などにトラブルを多く抱え、シャシーも長身の亜久里に合わないなどの問題があり、入賞することが出来なかった。但し、当時はまだHパターンのギヤボックスが主流であった中、シーケンシャルタイプのギヤボックスを開発するなど技術的な進歩も見られた。
1993年にはシーズン途中でマクラーレンからアクティブ・サスなどのハイテク装置を購入、弱点であったハンドリング不良が消えて戦闘力は大幅に増し、3年振りF1復帰のワーウィックと残留した亜久里の両ドライバーともそれまでと比べ予選順位が10ポジション程度アップしたが、レースではギアボックスにトラブルが続出してなかなか結果に結びつかなかった。
シーズン終了後、フットワークの金融トラブルによる業績悪化からチームを手放さざるをえなくなり、ジャッキー・オリバーが再びチームオーナーとなった。以降チーム名は以前のアロウズを名乗ったが、コンストラクターとしては1996年までフットワークと名乗り続けることになる。1995年には日本人の井上隆智穂を起用したが入賞もままならないなど低迷期を迎えることとなる。
1996年の序盤に、資金が足りず、ベネトンやリジェを率いていたトム・ウォーキンショーに再び株式の大半を売却。運営もスポーツカーレースで数々の好成績を収めていた「トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)」が行うこととなり、コンストラクターズ名称もアロウズに戻った。
1997年には、著名デザイナーのジョン・バーナードと、前年にウィリアムズでチャンピオンになったデイモン・ヒルを獲得し、A18はカーナンバー”1″を纏った。エンジンはヤマハ、タイヤはブリヂストンと奇しくも日本関連の陣容となった。開幕当初はヒルをもってしても苦戦が続いていたが、ハンガリーGPで快走を見せ、ファイナルラップ途中でマシントラブルによりジャック・ヴィルヌーヴに抜かれるまではトップを独走、最終的に2位でフィニッシュ。
しかし、TWR傘下のハートとの軋轢からヤマハが撤退し、ヒルも1年限りで移籍、バーナードの意欲作A19も成功しなかった。
1999年はナイジェリアのマリク王子と投資銀行モルガン・グレンフェルが経営参加し、「t-minus(ティーマイナス)」という謎のブランドを提唱、日本人ドライバーの高木虎之介が加入したが、予選ではバックマーカーが定位置となりチームとしてわずか1ポイントの獲得に終わる。
オリバーは1999年までチームに留まったが、残った株式を売却し、チームから手を引いた。
2000年はOrangeのメインスポンサーを獲得し、スーパーテックエンジンを搭載、直線スピードの速いA21で意外な好走を見せた。
2001年にはプジョー改めアジアテックエンジンの無償供給を受けるものの、成績は低迷、わずか1ポイントの獲得に終わる。
2002年はフォード・コスワースCRエンジンのカスタマー供給を受け、さらにはニューマシンA23の出来が良く、新加入のハインツ=ハラルド・フレンツェンがしばしば好走を見せたが、資金難は悪化する一方でモナコGPでは撤退の話が出た。当時ウォーキンショー代表は明確に撤退を否定したが、イギリスGPで再度撤退するのではないかとの噂が流れた。次戦のフランスGPでは両ドライバー共に予選アタックを全開で行うことなく「予定通り」に予選不通過となる。結局、ドイツGPを最後に一時休止の決断をするが、その後復活を果たすことなく、足掛け25シーズンにわたるアロウズのF1参戦は終止符を打った。
TWRの倒産後、アロウズの工場はアメリカのメナード・エンジニアリングが購入し運営を行っており、2006年から2008年にかけてF1に参戦していたスーパーアグリF1チームが、メナードからのリースで同工場を活動拠点として使用していた。他にもスーパーアグリは、初年度のマシンとなるSA05、SA06に2002年にアロウズが使用したA23のモノコックを流用していたほか、スタッフも旧アロウズに所属していた人間が多数を占めるなど、アロウズと密接な関係を持っていた。
アロウズはF1史上最長の未勝利記録を持ち、382戦に出走して1勝もできなかった。しかしながら、チームは常に競争力を持つ車を提供し、フロントランナーにはなれなかったものの、しばしば有能なドライバーに活躍の場を与えた。パトレーゼ、ティエリー・ブーツェン、ゲルハルト・ベルガー、マルク・スレール、マーティン・ドネリーはその経歴の初期にアロウズをドライブしている。