Gérard Larrousse’s Larrousse

 
Gérard Larrousse’s Larrousse
Philippe Alliot and Gérard Larrousse / Larrousse Lola-Lamborghini 1993

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ドライバーはチームオーナーとしても成功するのか? ≪Gérard Larrousse / Larrousse≫

ジェラール・ラルース1940年5月23日、フランス・リヨン生まれ
出走回数2(1スタート)
所属チームブラバム
優勝回数0
通算獲得ポイント0
表彰台回数0
ポールポジション0
ファステストラップ0
ドライバーズタイトル0
ローラ
ヴェンチュリー・ラルース
ラルース
1987年〜1994年
出走回数126(ローラ78、ヴェンチュリー・ラルース16、ラルース32)
コンストラクターズタイトル0
ドライバーズタイトル0
優勝回数0
通算獲得ポイント25(ローラ19、ヴェンチュリー・ラルース1、ラルース5)
表彰台回数1(ローラ)
ポールポジション 0
ファステストラップ0
ジェラール・ラルース
ジェラール・ラルース(Gérard Larrousse)は、レーシングドライバーとしてラリー、スポーツカーレース、F1に参戦した。
フランスラリー選手権をアルピーヌ・A110で制し、国際ラリーではポルシェ・911で1969年のツール・ド・コルスに勝利、1969年、1970年、1972年のモンテカルロ・ラリーで2位に入った。
グラベルラリーでは、1970年のRACラリーで6位となった。
1971年にはポルシェ・917Kに乗り、ヴィック・エルフォードと組んでセブリング12時間レースに勝利、ニュルブルクリンク1000kmもポルシェ・908/03で制した。
1973年と1974年にはアンリ・ペスカロロと組んでマトラ・シムカMS670Bでル・マン24時間レースを連覇した。
F1には1974年にスクーデリア・フィノットのブラバム・BT42で2度参戦したが、ポイントを獲得することはできなかった。
その後、レースマネージャーへ転進、ルノーのファクトリーチームが1985年にF1を撤退するまでの最後の2シーズンにチームマネージャーを務めた。
その後1987年から1994年まで、パートナーと名前を変えながら自身のF1チーム「ラルース」を運営した。
ラルース
ラルース (Larrousse) は、1987年から1994年までF1に参戦していたレーシングチーム。
例年弱小チームとしての見られ方が一般的であったが、一時は日本企業がオーナーとなった上に、その歴史を通じて日本人ドライバーを数多く起用した。
1987年にジェラール・ラルースとディディエ・カルメルにより「ラルース・カルメル」として設立。参戦開始当初は、名門シャシー・コンストラクターのローラ社がシャシーを製作。エンジンはフォード・コスワースのDFZ V8を使用。シーズン開幕当初はフィリップ・アリオーのみの1カー体制で、終盤戦のメキシコGPからヤニック・ダルマスを加えた2カーエントリーが実現。アリオーがドイツGPなど3回の6位入賞、ダルマスもオーストラリアGPで5位入賞するなど、初年度としてはまずますの成績を収めた。
1988年日本GPでは、病気になったダルマスに代えて急遽鈴木亜久里をスポット参戦させた。
1989年3月にディディエ・カルメルは妻の殺人容疑で実刑判決を受け、同年のサンマリノGPを前にチームを辞した。チームはカルメルの名を除き以後「ラルース」として参戦するようになり、ランボルギーニのエンジン供給を受けたが目立った戦績は残せなかった。
シーズンオフに、鈴木亜久里の個人スポンサーで不動産業をはじめ事務機器製造販売やレンタルビデオ店「GEO」など多岐にわたる事業を展開していた日本企業・エスポコーポレーションがチームの株式を取得し、同社社長の伊東和夫がチームオーナーとなった。
1990年にはエリック・ベルナールと鈴木亜久里がコンスタントに入賞。特に鈴木亜久里は地元の日本GPで、日本人として初の3位表彰台を獲得。
1991年のシーズン開幕前に、ローラ製シャシーを使用していたにも関わらず、コンストラクター名を「ラルース」と誤った名称でエントリーしていたことを理由に、FIAより前年のコンストラクターズポイントの剥奪処分を受けた。また、ポイントを失ったことにより予備予選の対象とされるとも発表されたが、その後の裁定で、実際には予備予選の対象からは外された。
この処分によって前年のコンストラクターズランキング10位までのチームに与えられる移動手段(FOCA便)の使用権が剥奪されたが、ラルースの移動費用はFOCAにより補填された。この処分をめぐっては、前年のコンストラクターズランキングで11位に終わり、ラルースの処分によってFOCA便の使用権を得ることができるリジェによる訴えがあったと言われている。
また、オーナーでありメインスポンサーのエスポが、バブル景気崩壊による業績悪化からチームへの支援を大幅に縮小し、ジェラール・ラルースが再びオーナーとなった。
さらに、ランボルギーニ・エンジンもリジェに奪われてしまう。これについては、それ以前からランボルギーニに対するエンジン代金の支払いが滞っていたためにエンジン供給を止められただけで、その後リジェがランボルギーニからエンジン供給を受けることになったのはただの偶然だという説もある。チームは前年までティレルが使用していた、ハートチューンのコスワースDFRエンジンを使用したが、このエンジンはしばしばエンジンブローを起こし、終盤戦には両ドライバーともに予選落ちを繰り返した。
チームはこの年末に倒産、日本で言う民事再生法に相当する法律の適用を受けることになる。再生支援を行ったのが、フランスの高級自動車メーカーのヴェンチュリー社で、日本企業で姫路セントラルパークやMINEサーキットを経営していた土井不動産の経営するセントラルパークも株式を取得した。
1992年、会社名を「ヴェンチュリー・ラルース」、チーム名を「セントラルパーク・ラルース」、コンストラクター名を「ヴェンチュリー・ランボルギーニ」へと変更する。また、シャシー製作もローラから、ロビン・ハード率いるフォメットF1をヴェンチュリーが買収したヴェンチュリーUKへと変更した。エンジンも、リジェがルノーエンジンにスイッチしたことに伴い、再びランボルギーニV12に戻している。
ドライバーにはこの年F1デビューを果たした片山右京と、前年ジョーダンで活躍を見せながら傷害事件で逮捕されたことによりシートを失っていたベルトラン・ガショーを起用したが、モナコGPでのガショーの6位入賞のみが唯一のポイント獲得となった。シーズン半ばでヴェンチュリーが資本を引き揚げたため、ロビン・ハードがオーナーの形でラルースF1を再編成、ヴェンチュリーUKもラルースUKに改称。
1993年からは、ようやくチーム名と同じ「ラルース」をコンストラクター名として使用するようになる。ドライバーは4年ぶりに復帰したアリオーとリジェから移籍したエリック・コマス。シーズン終盤の日本・オーストラリアGPでは、アリオーに代わって鈴木利男がスポット参戦した。
1994年に向けてチームは、F1参戦が噂されたプジョーとのパートナーシップを模索したが、プジョーは最終的にホンダ撤退以来ワークスエンジンを欲していたマクラーレンと契約した。ランボルギーニはマクラーレンへのエンジン供給を模索し、マクラーレンと共同でテストカーを制作もしていたが、マクラーレンがプジョーを使用することとなり、親会社のクライスラーの経営不振もあって1993年限りでF1から撤退。結局、この年のラルースは非力なフォードHBシリーズ8エンジンを使用することとなった。ドライバーはコマスと新人のオリビエ・ベレッタ。クローネンブルグ(同社のTOURTELブランドによる緑カラーでの出走が多かった)をメインスポンサーに、ゴロワーズ、後半戦スポットながらジタン・ブロンドを獲得したもののこの年は際立った成績を残せなかった。資金不足は深刻で、シーズン中盤にベレッタの参戦資金が尽きてチームを離脱した後は、アリオーや久々のF1出走となったダルマス、野田英樹などのドライバーの持参金が頼りという状況であった。
資金難に陥っていたラルースはチーム存続をかけ、国際F3000に参戦していたDAMSと合併交渉を行なうが破談。その後1995年のF1参戦を断念していたフランスのレーシングチーム、ジュニアチームと交渉を行い合併合意がなされた。ドライバーとして、エリック・エラリーとクリストフ・ブシューと契約したが、合併合意が1995年シーズン開幕直前となったため大幅なレギュレーション変更に対応したマシンが準備できず、ブラジル・アルゼンチンの開幕2戦を欠場。エラリーに替わりベルナールとブシューをドライバーに据えサンマリノGPからの参加を目指したものの、結局1戦も出走することなく撤退した。
このようにチームは次々とオーナーが変わるなど安定した体制で参戦したシーズンは1度として無かったが、実際のチーム運営は一貫してマネージングディレクターのジェラール・ラルースとテクニカルディレクターのミッシェル・テツが取り仕切った。