Dan Gurney’s Anglo American Racers/Eagle

Dan Gurney’s Anglo American Racers/Eagle
Dan Gurney and beautiful machine

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ドライバーはチームオーナーとしても成功するのか? ≪Dan Gurney / Anglo American Racers/Eagle≫

ダン・ガーニー1931年4月13日、アメリカ・ニューヨーク生まれ
出走回数86
所属チーム1959 フェラーリ、1960 BRM、1961-1962 ポルシェ、1962 ロータス、1963-1965,1968 ブラバム、1966-1968 イーグル、1968,1970 マクラーレン
優勝回数4
通算獲得ポイント133
表彰台回数19
ポールポジション3
ファステストラップ6
ドライバーズタイトル0
アングロ・アメリカン・レーサーズ1966年第2戦〜1969年第9戦までのエントリー
出走回数25
コンストラクターズタイトル0
ドライバーズタイトル0
優勝回数1
通算獲得ポイント17
表彰台回数2
ポールポジション0
ファステストラップ2
ダン・ガーニースポーツカーレースでの縁がきっかけとなり、1959年にフェラーリからデビュー。この年参戦した4戦中デビュー戦はリタイヤとなったが残る3戦で入賞し、そのうち2度表彰台に上がっている。
1960年はBRMで不本意な成績に終わったが1961年はポルシェに移籍。3度の2位などでランキング3位となった。1962年にはポルシェ・804に乗り第4戦フランスグランプリにて初優勝、これはポルシェチームにとっても初優勝であり、結果的にポルシェF1唯一の優勝となった。
1963年より新鋭チームのブラバムに移籍。2年目の1964年には第2戦オランダグランプリで初のポールポジションを獲得。第4戦フランスグランプリでは移籍後初勝利を挙げ、チームに初優勝をもたらした。最終戦のメキシコグランプリでも、シーズン2勝目を挙げている。
1966年より自らが立ち上げたアングロ・アメリカン・レーサーズに在籍。2年目の1967年に第4戦ベルギーグランプリで優勝、チーム初勝利となる。その後様々なチームから散発的な参戦を行うも1970年をもってドライバー業を終えた。
ガーニーフラップは、ガーニーが開発したことに由来し命名されたものである。
1968年のオランダグランプリで、F1ドライバーとして初めてフルフェイスヘルメットを着用した。
レーサーでは唯一アメリカ大統領候補になった経験を持っている。
アングロ・アメリカン・レーサーズ/イーグル国内外問わずコンストラクター名とマシン名に混乱が見られるWebサイトが存在するが、1966年から1969年にかけて英国を本拠として参戦したのはアングロ・アメリカン・レーサーズであり、出走させた車両名がイーグル(英: Eagle)である。
25レースで延べ34台を出走させた。
1964年にカリフォルニア州サンタアナにおいて設立、ダン・ガーニーがF1のブラバムチームで活動をする合間に米国内でスポーツカーレースの活動を行うためのチームであった。
同年、キャロル・シェルビーは自身のコブラスポーツカーにグッドイヤー社のタイヤを装着していたが、同社がインディアナポリスのレースでライバルのファイアストンに挑む体制を求めていたため、シェルビーはガーニーとグッドイヤー社を引き合わせた。契約は成立し、1966年向けのインディカー開発が始まった。ガーニーは1965年のインディ500を制覇したロータスのデザイナーであったレン・テリーを引き抜き、F1とインディカーの双方に使えるイーグル独自のシャシーを設計した。結果的に、米国内レース向けにはイーグル・フォードT2Gとして、またF1向けにはイーグル・クライマックスT1Gとして完成した。
F1に出走するため、ガーニーは英国サセックスにアングロ・アメリカン・レーサーズ社を設立した。
イーグル・クライマックスは1966年のベルギーGPでデビューし、その3週間後にはフランスGPで5位に入賞し初のポイントを獲得した。1967年にはリッチー・ギンサーがセカンドドライバーとして契約した。また前年のクライマックス・エンジンに代わって、ガーニーのためにオーブリー・ウッズが設計しハリー・ウェスレイクが英国で製造した3リッターのウェスレイクV12エンジンが搭載された。同年6月のスパでのレースで、ガーニーが初勝利を記録。
イーグル・ウェスレイクは美しい車であると同時に、チタンや新合金を用いた実用的な車でもあった。惜しむらくは、ウェスレイク・エンジンが高出力ながら信頼性に乏しかった点である。エンジンの設計自体は良かったものの、ウェスレイクは英国海軍が第1次世界大戦で用いていた機械の放出品で製造していたのである。この旧式機械は各エンジンごとに部品の交換がきかないほど、出来上がりの寸法にばらつきを生じてしまう代物であった。ガーニーの計画は1968年には予算が底をついていたが、米国ではボビー・アンサーを擁してインディ500の勝利や同年のインディカー選手権を勝ち取るなどうまくいっていたため、彼は米国に戻ってインディカーの計画に集中することにした。