Single Victory Club [6] Members 2000s

 
Single Victory Club [6] Members 2000s
冒頭写真:
写真は1998年のプロスト・グランプリ。
チームオーナーのアラン・プロストを中央に挟んで、既に SVC 会員であるオリビエ・パニス(右)と、後に別のチームで SVC 入会を果たすヤーノ・トゥルーリ(左)。
当時は充分期待できるラインナップであったが、今となっては悲壮感しか漂わない組み合わせである。
このチームは、2002年1月に負債総額2000万ポンドを計上し破産した。

1回しか勝てなかった男たち列伝 その6 ≪2000年代≫

最終更新:2021年第11戦ハンガリーGP終了時点での加筆修正

2000年代の SVC 入会会員は3名。
2021年時点での彼らの内一人はドライバー業を引退したが、もう一人はF1リザーブドライバーを、残る一人は他のカテゴリーでレギュラードライバーを務めている現役ドライバーであり、SVC 退会の可能性は全くのゼロではない。

ヤーノ・トゥルーリ(イタリア)

2004年第6戦モナコGP / ルノーでの優勝。
1997年、ミナルディからF1デビュー。この時のチームメートである片山右京とは、以後も深い親交が続いている(デビュー当時、好タイムを出すと「ウキョウが教えてくれた通りに走った」とコメントするのが常であった)。そして7レースに出場後、第7戦カナダGPでクラッシュにより大怪我を負ったオリビエ・パニスに代わり、第8戦フランスGPよりプロスト・グランプリから参戦、第14戦オーストリアGPではレース中盤までトップ走行を見せるなど印象的な活躍を見せたが、次戦第15戦ルクセンブルクGPからは復帰したパニスにシートを返した。つまり、後に自身も入会することになるSVC先輩会員の代打としての6戦出場であった。
この時、チームオーナーであり元ワールドチャンピオンであるアラン・プロストは、中野信治のシートに彼を座らせたいと洩らすほど才能を評価していた。この活躍により、翌1998年にはプロスト・グランプリのレギュラーシートを獲得。この年のプロスト・グランプリは、前年のニアミスとは異なり遂に同一チームからのSVC会員コンビでの参戦を実現させたが、この時はまだトゥルーリは優勝未経験だったので現役SVC会員2名を擁する栄誉には預かっていない。
1999年も同チームに所属することになるが、前年と同じく戦闘力に劣るマシンに苦闘を強いられる。雨による混乱のレースとなったヨーロッパGPでは見事自身初の表彰台となる2位入賞を果たした。
2000年は、前年に引退したデイモン・ヒルが自身の後任に強く推薦したこともあってジョーダンのシートを獲得。第7戦モナコGPの予選では見事2位を獲得。迎えた決勝では、トップのミハエル・シューマッハに離されながらも2位をキープしていたが、マシントラブルによりリタイアした(シューマッハもマシントラブルでリタイアしたため,初優勝のチャンスでもあった)。なおこの年、新人であり後のチームメイトとなるジェンソン・バトンとは幾度も接触事故を起こしている(ほぼすべてバトン側に非があった)。
2001年も前年と同じくマシンの信頼性の低さに悩まされ、予選では多くのGPでシングルグリッドを獲得するも、入賞は僅か5回に終わった。そして、ジャンカルロ・フィジケラと入れ替わる形で2002年にはルノーへ移籍することになる。
2002年も前年と同様、期待を裏切られるシーズンとなる。ルノーが投入した111度のワイドバンク角エンジンのトラブルに悩まされ続け、全17戦中リタイアは9回を数え、入賞は僅か4回にとどまった。
2003年には33ポイントを上げ、第12戦ドイツGPでは移籍後初、そして4年ぶりの表彰台を獲得した。
2004年は第6戦モナコGPでF1初優勝を果たすなど、前半戦は僚友フェルナンド・アロンソを圧倒して好調であったが、徐々にチームとの関係が悪化すると共に成績も降下していく。モナコGPでの優勝の際にはルノーの会社マークにキスをしたことが話題になり、ルノー関係者からの評価も高かった。しかしルノーの母国フランスGPでは、最終ラップでルーベンス・バリチェロにパスされ表彰台を逃し、それ以降情勢が変化していった。こうした中、同年9月にはトヨタへの移籍を発表するに至るが、チームとの関係はますます悪化し、ついに第15戦イタリアGPを最後にチームを離脱した。その後、第17戦日本GPと第18/最終戦ブラジルGPではトヨタから参戦。
結果的にトヨタはこの年の日本GPの一戦のみ、プロスト・グランプリが惜しくも2度に渡ってニアミスで逃していた、オリビエ・パニスとトゥルーリという SVC 現役会員2名を同時に擁するという31年振りの快挙を成し遂げることとなった。
参考: 現役SVC会員を複数同時に擁したチーム(2004年までの全記録)
・フェラーリ(バンディーニ/スカルフィオッティ)1967年第2戦のみ
・BRM(ベルトワーズ/ゲシン)1972年第9~12戦、1973年第14戦のみ

* 但し、この2チームの記録は1チームからの出場マシン制限が無かった頃のものであり、ドライバーが2名に限定されるようになってからのトヨタの記録はより希少性が高いものである。

2005年は正式にレギュラードライバーとしてトヨタから参戦。第2戦マレーシアGPで2位表彰台を獲得。その後の第3戦バーレーンGPでも2位、第5戦スペインGPでも3位と相次いで表彰台を獲得。第9戦アメリカGPではトヨタに初のポールポジションをもたらした。期待された決勝レースでは、ミシュランタイヤに問題が発覚し、ミシュラン勢は全車がレースを棄権したため、記録上はリタイアとなった。
シーズンを通して開幕前の予想を覆す活躍を見せ、チーム初のコンストラクターズランキングの4位獲得に貢献した。
2006年、トヨタでの2シーズン目となり飛躍が期待されたが、この年に投入された車体「TF106」は成功作とはいえず、序盤には入賞すらできなかった。その結果、第7戦モナコGPからは改良型「TF106B」が投入された。得意とするモナコGPでは終盤3位を走行する活躍を見せたものの、表彰台を目前にしながら結果はリタイアに終わった。第10戦アメリカGPでは、予選後のパーツ交換によるペナルティをうけ最後尾スタートとなったが、4位でゴールするという力走を見せた。また第12戦ドイツGPでは、トヨタと2009年までの契約延長が発表された。
2007年、予選ではQ3進出の常連となったが、決勝のスタートでは出遅れることが多く、また予選と比較してレースペースが遅い・安定しないということもあり、入賞は僅かに4回にとどまった。また、このシーズンはチームラジオ(無線)でマシンバランスなどについて訴える場面が度々国際映像で取り上げられている。
2008年開幕戦オーストラリアGPでは、予選で6番手を獲得するもリタイア。しかしその後、第2戦マレーシアGPで4位、第3戦バーレーンGPで6位、第4戦スペインGPで8位と3戦連続入賞を果たす。第8戦フランスGPでは3位に入賞し、自身3年ぶりの表彰台を獲得。このGPの前にチームトヨタF1の初代代表オベ・アンダーソンがラリーで事故死し、彼に捧げる3位となった。最終戦ブラジルGPでは予選2番手に入る速さを見せた。しかし、天候の変化によるタイヤ交換の際にキミ・ライコネンに先行され、その後も6位走行中にハーフスピンを起こし、スクーデリア・トロ・ロッソのセバスチャン・ボーデとチームメイトのティモ・グロックにも抜かれ、最終的に8位入賞にとどまった。
最終的にこの年は31ポイントを獲得し、ドライバーズランキング9位でシーズンを終えた。
2009年シーズンはトヨタのマシンTF109の性能が非常によく、開幕戦オーストラリアGPではペナルティで予選タイム抹消、ピットスタートになったもののトゥルーリ3位、チームメイトのグロックも4位に入り、絶好調のスタートを切った。 第4戦バーレーンGPでは、予選トヨタ1-2でトゥルーリが2005年アメリカGP以来のポールポジションを獲得した。しかし、決勝は戦略によって後退、3位となった。また、このレースで参戦206戦目にして自身初のファステストラップを記録した。中盤戦はなかなか入賞できずにいたが、トヨタの母国第15戦日本GPでは予選2位で、スタートではハミルトンに抜かれたが、最後のピットでハミルトンを逆転してトヨタの母国で初めて2位表彰台そしてトヨタF1の最後の表彰台を獲得した。この年限りでトヨタが撤退したため5年間所属していたチームを離れることになった。
2010年は新規参入チームであるロータス・レーシングに移籍。マクラーレンから移籍してきたヘイキ・コバライネンとタッグを組む。
遂に年間を通して現役 SVC会員を同時に擁する栄誉はロータス・レーシングのものとなった。
冬季テストでは信頼性はあるが、速さは見せ付けていない。この年はマシンの戦闘力が不足していたため、主に新規参入した3チームの中でのトップを目指すシーズンとなった。シーズンを通した成績は予選結果ではチームメイトのコバライネンに対し11勝8敗と勝ち越したものの、決勝ではコバライネンの後ろでフィニッシュすることが多く、両者が完走してトゥルーリが前でフィニッシュしたのは第10戦イギリスGPのみであった。マシントラブルでのリタイアも多く、全19戦中完走は11戦で最高位は第16戦日本GPの13位であった。また、F1参戦14年目にして自身初のノーポイントのシーズンだった。
2011年マレーシアGP
前年からのマシンの進化が期待されたものの、既存チームに追いつける程の速さは無い状況は変わらなかったが、状況によってはぎりぎりQ2進出も可能な場合もあった。しかしチームメイトのコバライネンに対して予選では18戦中2戦でしか上回れず、Q2進出も1度も無く、まったく速さを示すことが出来なかった。決勝に於いては前半は互角の結果を残したものの、後半は負け続けてしまった。ただし13位に2回入ったためランキング上はチームメイトを上回り、コンストラクターズ選手権に於いても10位になることに貢献した。
ドイツGPではリザーブドライバーのカルン・チャンドックに1戦のみとはいえシートを奪われてしまった。他のGPでも交代の噂が出てしまったり、2012年もチームとの契約があるにもかかわらずシートを奪われる噂が絶えないなど、ランキング以外ではあまり良いところのない一年となってしまった。
2012年ヘレステスト
チームは新たにロータスからケータハムへ名称が変更されたが引き続きレギュラードライバーとして残留した。新車CT01のテストでは最終日を担当し117周を走行した。ところが、突如2月17日にチームはトゥルーリに代わりヴィタリー・ペトロフの起用を発表、トゥルーリはシートを失った。チーム代表トニー・フェルナンデスはこの決定を「ヤルノの代わりにヴィタリーを入れるというのは簡単な決断ではなかった。だが、チーム全体に刺激を与えるためにも、また現実的に世界的な経済マーケットを見据えた時にこれは必要な判断だった」と語った。また、トゥルーリのシート喪失に伴って、40年ぶりにF1からイタリア人ドライバーが姿を消すことになってしまった。
2014年6月、 同年9月より開催されるフォーミュラE選手権にチーム代表兼ドライバーとして参戦することを発表した。これはすでに参戦を表明していたドレイソン・レーシングより参戦権を譲り受けたものである。チームの運営はスーパーノヴァ・レーシングが受け持つ。またチームメイトとしてイタリアの女性ドライバーミケーラ・セルッティを起用した。
しかし、初戦からセルッティ共々後方グループに沈むことが多く、唯一のF1優勝経験者として期待されながらも全く見せ場の無いレースが続く。第4戦ブエノスアイレスGPでついに4位入賞を果たしたが、その後も入賞圏外やリタイアが続いた。この間に第5戦からチームメイトはセルッティに代わり、元F1ドライバーのビタントニオ・リウッツィに交代している。
そんな中、第8戦ベルリンGPで突然ポールポジションを獲得。F1時代から数えると2009年バーレーンGP以来6年ぶりのポール獲得であり、周囲を大きく驚かせた。しかし決勝ではスタートこそ良かったものの、1周目であっさり2位スタートのルーカス・ディ・グラッシにかわされ、さらにチームメイトのリウッツィに抜かれた上にその後もペースが全く上がらず続々と後続に抜かれていき(後述の「トゥルーリ・トレイン」にすらならず)、最終的に2周遅れの20位最下位(全車中唯一の周回遅れ)でフィニッシュしている。その上フォーミュラEにおける初の全車完走だったため、図らずもフォーミュラE史上最低順位を記録してしまった。
予選ではチームメイトよりも比較的上位のグリッドを獲得することが多い。しかし決勝ではレースペースが落ち、しばしばレース中に彼を先頭にした渋滞を巻き起こすことがある(しばしば、「トゥルーリ・トレイン」と揶揄される)。
マシンバランスやセッティングなどの状態に非常に左右されやすく、自身の好みから僅かでも外れていると途端に最大限の力を発揮できなくなる。逆にしっかりと好みに合った時には、類稀な速さを発揮する。
シーズン前半は好調でも、シーズンが進むに従って調子・成績が下降していくという傾向が見られる。
フォーミュラEにおいては所属チーム名に自身の名前「トゥルーリ」を冠したため、レース中継で呼称されるときはいちいち「『トゥルーリ』の『ヤルノ・トゥルーリ』」と呼ばなくてはならず、やや面倒になっていた。

ロバート・クビサ(ポーランド)

2008年第7戦カナダGP / BMWザウバーでの優勝。
ポーランド人としての初優勝はBMWザウバーの初優勝でもある。
2006年はBMWザウバーのサードドライバーとして起用され、レギュラードライバーのジャック・ヴィルヌーヴが第13戦ハンガリーGPを欠場したため、このレースにおいてポーランド人初のF1ドライバーとして急遽デビューを飾った。7位入賞圏内でレースを終えたが、マシン重量が最低基準に2kg足りなかったため失格となった。その後、ヴィルヌーヴはそのままBMWザウバーから離脱したため、以降のレースも参戦することとなった。
Kubica crash 2007 Canadian GP
2007年第6戦カナダGP、オールドピットヘアピン手前の左コーナーで SVC先輩会員ヤルノ・トゥルーリと接触、大クラッシュ。軽く接触しただけにもかかわらずコースアウトした際に芝生の段差でマシンが跳ね、コントロール不能のまま直進し270km/hの速度でコンクリート壁に激突、車体は跳ね返って数十メートルに渡り回転しながら移動、ヘアピンのランオフエリアで横倒しでようやく停止。特にフロント部分の破損が著しく、両足が露出するほどの凄まじいクラッシュだったが、軽い脳震盪と右足首捻挫のみと診断された。しかし、FIAの医師団の判断により第7戦アメリカGPは欠場。第8戦フランスGPで復帰すると、残り10戦中8戦で入賞する安定感を見せた。

2008年、開幕戦オーストラリアGPで予選での自己最高位である2位を記録。決勝ではレース中盤で中嶋一貴に追突されリタイア。第2戦マレーシアGPでその時点の自己最高位2位を獲得し、約1年半年ぶりに表彰台へと上った。さらに第3戦バーレーンGPでは自身とチームにとって初のポールポジションを記録、決勝でもフェラーリの2台に続く3位でフィニッシュし、2戦連続表彰台に上ったほか、第6戦モナコGPでも2位表彰台を獲得。前年に大クラッシュに見舞われた第7戦カナダGPでは、完走が13台という荒れたレースを制し、ポーランド人として初優勝を飾ると共に、BMWザウバーにも初優勝をもたらした。この結果、ドライバーズランキングで初めてトップに立った。この飛躍の裏にはオフシーズンの大幅な減量で可能になったバラストの追加配分があったとされる。しかし、シーズンが進むに従って調子を落としていった。これはランキング上位に付けチャンピオン争いが可能にもかかわらず、シーズン後半には早々にチームが翌年の車の開発に比重を移してしまった事が影響しており、このチーム方針に対しクビサは不満を呈していた。
この年は、優勝1回を含め7回の表彰台獲得、ポールポジション1回獲得などの活躍を見せ、シーズン終盤までタイトル争いに絡んだ。最終的に3位のキミ・ライコネンと同ポイントのランキング4位でシーズンを終え、SVC 会員大先輩の名を冠するロレンツォ・バンディーニ賞を受賞。
2010年シーズンはルノーF1から参戦。上位陣に比べて戦闘力が大幅に劣るといわれるマシンで第2戦オーストラリアGPで2位、第6戦モナコGPで3位を獲得した。
F1デビューをした2006年ハンガリーGPでの走りを見たフェルナンド・アロンソが絶賛。カート時代より面識があったが以降親交を深め、2009年シーズン終了後にBMWザウバーが撤退することによりクビサのシートが喪失の危機に陥ったとき、ルノーからフェラーリに移籍が決定していたアロンソが「僕の後任として迎えられるならば彼を推挙したい」と述べ、クビサのルノー入りの強い後押しになった。
フェルナンド・アロンソとは親友である。
2011年は開幕前のバレンシアテストの最終日に新車R31で全体のトップタイムを記録するなど好調なスタートを切ったが、その直後の2月6日に趣味でもあるラリーに参戦中大クラッシュ、手首を含む複数個所を骨折した。
この年はシーズン前のテストで走行したのみで事故後は一切参戦していなかったが、ロータス・ルノーGPはクビサにこの年の給料を支払った。
事故
2011年2月6日、イタリアで開催されたラリーイベント「ロンド・ディ・アンドラ(Rally Ronde di Andora)」で大クラッシュを喫した。シュコダ・ファビアS2000で参戦したクビサは右から左へと連続して曲がる高速カーブでミスをしガードレールに接触、ガードレールの鉄板がボンネットを突き破って後部ハッチバックドアまで車内を貫通、クビサは右腕の複雑骨折、左手、足などの単純骨折、肺の損傷を負う重傷。サヴォーナ県のピエトラ・リーグレにあるサンタコロナ病院にヘリコプターを使って搬送され、施術に伴う右腕切断の可能性も検討されたが、専門医による7時間にも渡る手術とその後の複数回の手術により、右腕の不自由さを除いて順調に回復した。
数多くのドライバーや関係者が電報による見舞いを行う中、アロンソは真っ先にクビサの元を訪問している。
各チームがマシンテストなどで開発に注力するような時期に直接の見舞いを行ったことは、如何にクビサとアロンソの親交が深いかを物語っている。
ラリーに復帰
2012年、復帰戦としてイタリアのラリー、ロンデ・ゴミトロ・ディ・ラナに出場し、4回行われたタイムトライアルすべてでトップタイムを記録し、復帰戦を優勝で飾る。
2013年1月にはバレンシア・サーキットで行われたドイツツーリングカー選手権(DTM)のマシンテストにメルセデスから参加。
このためDTM参戦が噂されたが、結局この年はDTMではなく世界ラリー選手権(WRC)の下位カテゴリーである「WRC2」にシトロエンから参戦。
最終的に参戦した全7戦で5勝を挙げ、同年のWRC2チャンピオンを獲得した。
なお、シフトチェンジは通常右手でシーケンシャルMTを操作するが、クビサは特例により、ステアリング左側のパドルでセミAT操作をすることが認められた。
2014年はWRCに昇格し、ポーランドの石油会社ロトス (Grupa Lotos) の支援を受け、Mスポーツからフォード・フィエスタ RS WRCで参戦。
ラリー・ポーランドのWRCカレンダー復帰にも協力するが、シリーズランキング16位と低調な結果に終わる。
また、負傷した右腕の機能回復が思わしくないことから、F1復帰を事実上断念するような談話も出すようになった。
2015年は自らのチームである「RKワールドラリーチーム」を結成しWRCへの参戦を継続。
しかし財政的な問題に悩まされ、さらにはマシンメンテナンスの委託先とのパートナーシップが決裂するなどの問題も抱えたため、結局2016年のWRC開幕戦であるラリー・モンテカルロを最後にWRC参戦を終了した。
サーキットに復帰
2016年3月にはムジェロ・サーキットで開かれた12時間耐久レースに参戦し、2011年の事故以来初めてサーキットでのレースに復帰した。
2017年は「国際的なレースに復帰するフィジカル的な準備ができた」と判断し、バイコレスのLMP1チームよりFIA 世界耐久選手権 (WEC) にフル参戦する予定だったが、後に脱退し参戦を断念している。
F1に復帰
2017年はF1のリザーブドライバーを務める傍らで、ドイツツーリングカー選手権にオーレン・チームARTからフル参戦。第8戦ゾルダーのレース2で表彰台に上がった以外目立った成績をふるうことはなく、年間ランキング15位に終わる。
6月、バレンシアのテストセッションで6年ぶりにルノーのF1マシンをドライブして116周を走破し、テストドライバーのセルゲイ・シロトキンを上回るタイムを記録。
9月には、2016年のF1チャンピオンであるニコ・ロズベルグを共同マネージャーに起用することを発表。
10月、ウィリアムズで2014年型マシンによる2回のテストを実施し、安定した速さでF1マシンを走らせることができる点をアピールできたことにより、2017年シーズンを以て引退を予定していたウィリアムズのフェリペ・マッサの後任候補としてクビサの名前が浮上。
その後、アブダビGP後のアブダビでのテストではウィリアムズの2017年型マシンでテストにも参加した。
最終的にウィリアムズはマッサの後任にセルゲイ・シロトキンの起用を決め、2018年のレギュラードライバーにはなれなかったものの、クビサは同チームのリザーブドライバーとしてF1の世界に再び関わっていくこととなった。
2018年シーズン中はスペインGPとオーストリアGPの金曜日フリー走行に出走し、チームが参加していた公式テストも担当した。
ウィリアムズのリザーブドライバーとして働きながらレギュラーシート獲得を目指していた時、サマーブレイク中に起きたランス・ストロールの父親で資産家のローレンス・ストロールが率いるがコンソーシアムがフォースインディアを買収した出来事が彼に大きく影響を与える。この影響で同チームの彼のシートが空く可能性が出てきたため、ウィリアムズは彼の後任を探し始める。その候補にはクビサの名もあり、2019年から彼が同チームの正ドライバーになるのではという見方が出てきた。
だが、ウィリアムズの資金難の影響で持参金などの金銭的メリットが重視され、アメリカGP前にその要素がないジョージ・ラッセルが起用されたことにより、もう一人のドライバーはその点が重要視されるという見方が強まった。
そのため、実戦経験ではほかの候補を上回れても、その点がないに等しいクビサは不利と見られ、一時はフェラーリのリザーブドライバー就任が有力視された。
ところが、母国ポーランドの石油会社PKNオーレンが彼のための持参金を用意する情報が流れたのをきっかけに流れが変わった。
当初は持参金が用意できるセルゲイ・シロトキンの続投やメルセデスから間接的な支援を得られるエステバン・オコンの起用が有力視されたが、2018年11月22日、ウィリアムズが1000万ドルを超える支援金を確保したクビサを翌年のレギュラードライバーに起用したことが発表された。
これにより、クビサのF1復帰が確定することとなった。
2019年
2017年の頃からテストという形でF1に関わっていたが、2019年からウィリアムズのレギュラードライバーとしてカムバックし、2010年アブダビGP以来8年ぶりの実戦となる。
チームメイトはメルセデスのジュニア・ドライバー・プログラム出身の新人ジョージ・ラッセル。
彼の活躍を期待する声が多かったものの、苦言や不安視する声もあった。
特にウィリアムズでタイトルを獲得したジャック・ビルヌーブは厳しい目で見ており、以前からクビサの復帰については安全面の観点から反対していた。
そして、シーズンが開幕すると苦難の幕開けであった。
所属チームのウィリアムズは昨年に引き続いて深刻な不振に陥っており、チームメイト対決においても大半は予選・決勝共に敗北。
また、ビルヌーブも開幕戦終了時点で「いいメッセージではない」とストレートに批判していた。本人は当初マシンの個体差に懸念を示していたが、ラッセル車と交換しても改善せず、少なくともマシンの性能不足はあれど品質のトラブルがない以上、クビサの能力を疑問視する根拠を提供する結果となった。
ただし、第6戦のようにクビサが先行していたにも関わらず、ラッセルのピットインを優先させたことや他の作業が優先された影響もあるが、クビサ用に調整されたステアリングが使用できるようになったのは第14戦からであることが明かされるなど、チーム側は平等に扱っているとコメントしつつも実質ラッセルの方を優先していることを示唆した。
そのため、シーズン中盤には速くもウィリアムズ離脱が囁かれており、クビサのスポンサーも他チームにクビサの売り込みを掛けるなど厳しい立場に立たされていた。
そんななか、第15戦前に行われた記者会見に出席したクビサは、自身の決断で今季限りでウイリアムズを離れることを表明。
会見後にチームもクビサの決断を尊重した結果というコメントを正式に発表。これにより、今季でF1を離れることが確定した。
ほぼ毎戦が最下位争いとなる中、第11戦ドイツにて、アルファロメオ2台がペナルティでタイム加算により繰り上がり、復帰後初の10位入賞となった。
また、キャリアとしては、開幕戦からは9戦、通算なら13戦連続完走が最高であったため、テールエンダーとはいえ、第14戦イタリアGP完走に伴い、自身の連続完走記録を更新した形となった。
2020年はアルファロメオ・レーシングに移籍し、リサーブドライバーを務めた。またクビサをバックアップするポーランドの石油企業、PKNオーレンもアルファロメオに移籍しチームのメインスポンサーを務めることとなった。
アルファロメオは元を辿ると、クビサのデビューチームであるBMWザウバーでありリサーブドライバーという形ではあるが11年ぶりの古巣復帰という形になる。
社交的かつ紳士的な人物であると評価がなされている。
小林可夢偉と日本人記者がインタビューを行っている際に、小林が落とした無線機器(イヤホン)をインタビュー中に届けるなどユーモアも見せた。
元々、ラリー好きとしても知られており、F1が開かれない期間に度々ラリーに出場していたが、それが大事故につながってしまった。
一般的に常設サーキットと舗装の材質などが異なるためにタイヤの使い方などにおいて適応能力が試される市街地コースを得意としており、「ストリートファイター」の異名を持つ。

ヘイキ・コバライネン(フィンランド)

2008年第11戦ハンガリーGP / マクラーレンでの優勝。F1創設以来通算100人目のGPウィナーとなった。
F1デビュー前の2004年末、フォーミュラレースやラリーなどの各選手権のチャンピオンらを集め毎年年末に開催されているレース・オブ・チャンピオンズに参加し、トーナメント初戦でデビッド・クルサード、第2回戦でジャン・アレジ、準決勝でシューマッハ、決勝では同年の世界ラリー選手権(WRC)チャンピオンのセバスチャン・ローブと名だたるドライバーをことごとく撃破してチャンピオンに輝き、「シューマッハを破った男」として一躍注目を浴びる。
2007年、前年度のチャンピオンチーム、ルノーからF1デビュー。開幕戦オーストラリアGPでは何度もコースアウトを喫し、その後の数戦もミスが目立ったが、予選Q1でクラッシュして19番手で臨んだ第6戦カナダGPでの4位入賞後はコンスタントに入賞を続け、チームメイトのジャンカルロ・フィジケラを得点で上回る活躍を見せた。
第15戦日本GPでは、同郷の先輩であるキミ・ライコネンの追撃を最後まで抑えきり2位初表彰台、続く第16戦中国GPでは、デビューから16戦連続完走を果たし、ティアゴ・モンテイロの記録に並んだものの最終戦ブラジルGPで初のリタイア、記録更新には至らなかった。
2008年はフェルナンド・アロンソと入れ替わる形でマクラーレンへ移籍、開幕戦オーストラリアGPでは5位、及び自身初のファステストラップを記録。終盤はフェルナンド・アロンソと白熱した4位争いを繰り広げ、残り2周で遂にオーバーテイクしたが、直後のホームストレートでスピードリミッターを誤操作して失速し抜き返された。フェラーリのテストドライバーであるマルク・ジェネは、マクラーレンがこのような件への防止策を講じていないことについて驚いたと述べた。
第4戦スペインGPでは、22周目に突然左フロントホイールが破損するトラブルに見舞われ130km/hで瞬間衝撃は26Gでタイヤバリヤに激突、一時は安否が危ぶまれたが無事救助され、軽い脳震盪のみで済んだ。
第9戦イギリスGPで初ポールポジション、第11戦ハンガリーGPで最初で最後の優勝。
2009年シーズン終了後、ジェンソン・バトンのマクラーレン移籍が発表され、マクラーレンのシートを喪失、12月14日に新興チーム・ロータス・レーシングとの3年契約が発表された。
2010年は新興チーム、ロータス・レーシングに移籍。ヤーノ・トゥルーリとタッグを組み、遂に長いF1史上初となる年間を通してSVC現役会員ドライバーのみで構成されるドリームチームの誕生となり、一部のF1通からはいきなりチームの先行きが危ぶまれた。
第15戦シンガポールGPでは終盤の接触によりエアボックスから出火、ホームストレートで自分で消火した。この姿は国際映像にも納められ、海外では Fireman(消防士)の愛称で呼ばれるようになった。ホームストレートに炎上するマシンを止めた行為について批判もあったが、レース残り2周でピットレーンにはフェラーリやレッドブルのスタッフらが多数集まっており、燃え盛るマシンの中にもかかわらず一度はピットに入ろうとしたが直前でステアリングを切って止めた行動=ピットの安全性を考慮した判断力を賞賛する声も多数あった。
この消火シーンの写真が、AUTOSPORTのファン投票「LG MOMENT OF THE YEAR」の大賞に選ばれたが、本人はその直前に出場したレース・オブ・チャンピオンズでのクラッシュにより医師から安静を命じられており、授賞式には出席できなかった。
この年は全19戦中完走13回、新規チーム内でのトップフィニッシュは10回を数え、新規チームのドライバーとしてただ一人既存チームを抑えての完走2回、2度の予選Q2進出と好成績を挙げた。決勝最高位は12位。予選ではチームメイトに対し8勝11敗と負け越したが決勝では前に出ることが多く、両者完走したレースで先行されたのはイギリスGPのみと、レース運びではチームメイトを上回った。
2011年は前年を上回る3度の予選Q2進出を果たし、予選巧者として知られるチームメイトのトゥルーリ(第10戦のみチャンドック)に対し予選成績で19戦17勝という圧倒的なパフォーマンスを見せた。決勝においても終盤戦では1周あたり約0.5秒のタイムアップにつながるといわれるKERS非搭載のマシンながら、これを搭載するザウバー、ウィリアムズ、ルノーといった中段チームに迫るタイムを出し、既存チームを抑えてのフィニッシュは通算5回、特に第16戦韓国GPではザウバーを2台とも上回る順位で完走するなど好成績を挙げている。ドライバーズランキングでは最高位獲得回数の関係でトゥルーリにも遅れをとる自身最低の22位に終わったが、マシンそのものの戦闘力を考慮すれば終盤戦のパフォーマンスは驚異的なものであり、自身もシーズン終了間際のブラジルGPウィークエンド中に「2011年はモータースポーツでのキャリアで最高のシーズン」と語っている。
2012年、チームは「ケータハム」に名称変更。チームメイトはトゥルーリからヴィタリー・ペトロフに代わった。またチームとしてはじめてKERSも搭載されたが、前年終盤と比べると中段グループとの差は広がった。
2013年、ケータハムがペイドライバーを起用したためレースシートを喪失。しかしシーズンが始まるとケータハムは経験あるドライバーの不在によって予想よりも厳しいシーズンになってしまったと考えてコバライネンを呼び戻し、第4戦バーレーンGP前にリザーブ兼開発ドライバーとしてケータハムへ復帰。ファクトリーではシミュレーターやエンジニアとの作業を行いつつ、いくつかのGPではフリー走行1回目に出走した。
ロータス(元ロータス・ルノーGP)のキミ・ライコネンが背中の手術・療養のために第18戦アメリカGPと最終戦ブラジルGPを欠場することになり、代役としてコバライネンが選ばれた。チームはコンストラクターズ選手権で3位争いをしており経験を買われて選ばれたが、慣れない車に苦しみポイント獲得とはならなかった。
2014年はケータハムと交渉を行ったが、前年のロータス代役出走時の結果を残せなかった走りが考慮されレギュラードライバーのシートは獲得できなかった。
その後は目立ったレース活動は行っていなかったが、2015年は39号車レクサス・チーム・サードより平手晃平とともにSUPER GT500クラスに参戦することが発表された。
2009年シンガポールGPでの7位入賞以来2012年ブラジルGPを最後にシートを失うまで60戦連続ノーポイントはF1史上最多連続ノーポイント記録であったが、ライコネンの代役としてロータスから出場した2013年第18戦アメリカGPと最終戦ブラジルGPを加え、自身の不名誉な記録を62戦に更新した。
以下は完全なる余談。
なかなかのイケメンに隠されてはいるが、冒頭のサムネイル画像でも判る通り顔面パーツの配置が全て下半分に寄っており、突出した特徴を持つ頭蓋骨構造の持ち主でもある。